梅干の豆知識 梅干の歴史と南高梅について
梅干は日本を代表する伝統食品で、特に和歌山県の南部(紀南地方)は日本一の梅産地と名高く日本国内で生産される約6割の生産が行われております。今回は梅が古くから日本で食されてきた歴史や和歌山県で栽培がさかんになった経緯をご紹介したいと思います。
<梅干の歴史>
奈良時代:梅は菓子(当時は果物を指す)として貴族たちに、桃やビワと同じように生で食べられていました。
平安時代:有名なお話で、村上天皇が疫病にかかったとき、梅で病気を治したという言い伝えがあります。その梅が申年に漬けたものだったため「申年の梅」と言われ、重宝されました。また丹波康則(たんばのやすより)著の「医心方」で、梅の効能についても書かれており、当時の方々は梅の力を知っていたと思われます。
鎌倉時代:お寺の僧侶たちの茶菓子として梅干を用いていました。
戦国時代:武士たちの戦場では欠かせないものでした。保存食としてはもちろん、激しい戦闘での息切れを調えたり、生水を飲んだ時の殺菌用にしたりと用途はいろいろあったそうです。また、傷の消毒や伝染病の予防、さらには喉が渇くと梅干を眺め、酸っぱさを思い出して口にたまるツバでのどの渇きを癒したという話もあります。
江戸時代:この時代になると庶民にも梅干を食べる習慣ができました。その中でも紀州の梅干は「田辺印(たなべじるし)」として人気になり、田辺、南部周辺の梅が樽詰めされ、江戸に向けて多くの梅干を出荷したとされます。紀南地方は実は土地が瘦せており、米の育ちにくい土壌で当時その土地を治めていた紀州藩田辺領が、厳しい環境でも育ちやすい梅の栽培を奨励したのがきっかけに、梅栽培が始まったそうです。
明治時代:和歌山県の梅の栽培もこの頃から本格的に盛んになりました。明治10年頃、コレラや赤痢が大流行し、多くの人が亡くなりました。このとき梅干はコレラや赤痢の感染予防・治療に役立つと、貴重な食べ物となりました。また、戦時中は軍用職として奨励されたこともあり、梅の栽培が一気に盛んになりました。
<南高梅について>
南高梅(なんこううめ、なんこうばい)とは梅の品種のひとつ。主たる生産地は和歌山県でその果実は最高級品とされています。南高梅は果実が大きくその割に種は比較的小さめで果肉は厚くて柔らかいのが特徴です。
明治時代に和歌山県の旧・上南部村(現・みなべ町)で高田貞楠(さだぐす)が果実の大きい梅を見つけ、高田梅と名付けて栽培し始めました。1950年に「梅優良母樹種選定会」が発足し5年にわたる調査の結果、37種の候補から高田梅を最優良品種と認定されました。
その調査に尽力を尽くしたのが南部高校の教諭竹中勝太郎(調査委員長、後南部川村教育長)であったことから、高田の「高」と南部高校「南高」をとって南高梅と名付けられ現在に到ります。
5月の下旬から、6月にかけて和歌山県では梅の収穫期を迎えます。青梅の収穫から始まり、梅林堂の梅干に使用する樹から自然落下した完熟梅の収穫と、この時期は農家の方々は大忙しになります。そしてこの時期は台風が多く、収穫直前に被害を受ける梅もあります。また、空梅雨だったりすると水分が取り込めず、梅の実が思ったように大きく膨れないこともあります。農作物はどれもそうですが、天候や土壌の影響でその年ごとに収穫高も大きく変化してしまいまうため、我々、梅に携わる人間は特にこの時期(4〜6月)の天気の移り変わりに一喜一憂することになります。
ぜひ、順調に育っておいしい梅干になって皆さんにお届けできるよう願っております。